高台にある国道のパーキングから海を眺める。どこまでも海が開けていた。
その海を渡ると朝鮮半島があり、ユーラシアのとてつもない広大な大地が始まる。
その大きな大地もロカや希望の岬で終わる。そしてまた海が始まる・・・。
田舎者だってそこまで考える。
そんな風景の中に、漁師のオジサンの村はあった。
そこは海の香りというより漁村の匂いがした。成田空港は寿司の匂いがするように・・・
旅をすると分かるが土地によって匂いがある。それもそこで暮らしていると感じない。
暮らしが体に染み込むから。
漁師のオジサンはそんな海辺に小屋を建てた。
トーベ・ヤンソンやアンモロー・リンドバークが過ごした海辺の小屋を真似て。
街の人が遠くにある作品のような海辺の世界へ近づくために。
質素な小屋の前で、漁師のオジサンは真面目に話した。
漁村の案内人はそこで暮らす親子。地旅のインタープリターはネイティブ漁師が務めた。
海外のツアーに、ガイドと通訳の役割分担があるように。
漁村にはムーミン谷のような素晴らしさはないが、なんでもない間にも何かはある。
いつかしたことのある「かくれんぼ」のような時間が。
「伝説のビック・フット」は、波打ち際の岩壁に残る大きな茶色の足跡。
「鳴り浜」は、波が小石を洗う音。その演奏は澄んでいて文字や言葉で表せない。
「汽車の橋」は、コンクリートの作品で美しい鉄道橋が海辺の景色に溶け込む。
「トタン屋根のバス停」は、なんでもない田舎の風景。
田舎は団体で巡る旅ではない。小人数の感性旅が似合う。
見えるものが見えなかったり、感じるものが感じられないこともある。
そんな訳の解からない漁村の散策だった。